静かな夜だった。



……今思えば、この静けさに、疑問を抱くべきだったのかもしれない。






フィネクス王国。 


狐のような耳と尾、こめかみから耳の後ろ、そして前へと伸びる角、そして腰に白鳥の羽を持つ、フィネクス王族が統べる国。


他国から少し離れ、周りを森に囲まれたこの国は、広くは無いが、王を必要とする程度には狭くもなく、貧しくは無いが、特に裕福であったようにも思えない。

しかし城下町を行く人々の笑顔は絶えなかった。


国民とも、国外から来る旅人や商人とも良くやっていたように思えた。

他国との関係も、悪くはなかった。


なのに何故、こんな事になってしまったのか。

思い当たる節が………無い。


何か、見逃していたのか。

それとも、まだ未熟だから……。




そんな考えに頭を抱えながら、

少年は王城の薄暗い廊下を走る。


石畳に足音が響く。

今、追ってきているのは……4〜5人程か。


このまま行けば、階段がある。

そこから下へ降りれば、城から出られる裏口の1つに辿り着ける。

…しかし、前へ向けた少年の大きな耳に、

階段を駆け上がる人の足音が響いて来る。


…まずい。

このままでは捕まる。


少年は廊下に幾つも並ぶドアの中から適当な部屋を選んで入った。

追っ手は、夜目の効く種族では無かった。

少年との間の距離もあり、蝋燭の灯りも消えたあの暗い廊下では何処に入ったかはわからないだろう。

…しかし、バレるのも時間の問題だ。


少年は息を整えながらゆっくりと窓の方へ近寄る。

壁に並ぶ書棚や、幾つかある机や椅子の上に乱雑に置かれた本の山を見る限り、どうやらここは、資料室のうちの1つのようだ。


走る事が得意な種族とはいえ、

追われて逃げ続けるのは流石に、応えた。

中々整える事のできない息を荒いままに、少年は部屋の1番奥の机と、その後ろにある窓の間に隠れるように座り込んだ。


聞く限り、窓の外に人はいない。

……ただ、炎が全てを焦がす音だけが響いている。




…気付いた時には既に遅かった。

何かが破裂したような異音と叫び声を聞き、書斎の窓の外を見た頃には、既に城下町は炎に包まれていた。

どういう事だと、部屋の外を警備する者に問おうとドアを開けた少年の目に飛び込んできたのは、鼻と口を布で覆い、フードを被った男と、己の首を狙った刃物。

間一髪で後ろに飛び退いて避け、書斎の机に立てかけた木製の、少年の身丈の3分の2はある杖を手に取り、

男と同じような服装をした数人を退けた後、

こうしてここまで走って逃げてきたのである。


敵はフードの男たちだけでなく、自分を守るはずであった城の者も含まれていた。

…そうで無かった者は既に、無残な姿へと変えられていた。


体力も魔力も、かなり消耗してしまった。

これからどうすれば良いのか、

少年は考えるが、…一向に何も、思いつかない。


窓から飛び降りる事も考えたが、2階とはいえ、少年の小さな身体では無事に済まない高さである。

腰から伸びる羽はまだ小さく、魔力の少ない今ではまともに飛ぶ事も出来ない。


……そして、飛び降りた所で、下の階にいるであろう追っ手の仲間に見つかってしまうのがオチだ。


警備隊の者も、騎士団の者も、果ては城に使える女中などですら、あのフードの男たちの仲間か、そうでなければ……見た限りでは、殺されている。

今、自分に、信頼できる仲間はいない。


…今この国の王として立っている男も、逃げる際に部屋を覗いたが、

大きな血溜まりと、女王の身体の残骸を残して消え去っていた。

連れていかれた、のかもしれない。


……わからない。


しかしそれでは、何故女王を、…殺し、少年を殺そうとしたのか、それもわからない。

王として立っている男が、価値のある者なのだという事は、わかる。

それを連れて行くのであれば、同じ、王族としてこの城にいる、女王や少年にも、それなりの価値があるはずだ。


何よりも、この城下町を、灰にする必要があったのか。


……許せない。


やっと整ってきた息は、今度は怒りで荒んでくる。

不意に、涙が頬を伝うのがわかる。


自分には今、この涙を拭う事しか出来ないのか。

この小さな身体では、城下町を畝る炎を鎮めることも、叫び逃げ惑う民を救う事も出来ない。

……自分の身ですら、守れない。


狐のような大きな耳とバッスルスカートに隠れた長い尾、こめかみから耳の後ろ、そして前へと伸びる細い角、そして腰に白鳥の羽を持つ。

前髪は目の上まで、残りは顎程まで伸びたものを真っ直ぐに切り揃えた薄紫の髪に、丸い眼鏡の奥の、同じ色をした長い睫毛に囲まれた金色に輝く目を持つ、齢12程の少年。

この国の本当の王は、この少年だった。

少年の父である、前国王が病に倒れたのは数年前。

まだ10にも満たない少年を、王とする事は出来なかった。

10を過ぎても、角も羽も小さく、王族に伝わる魔法を満足に使えない少年は、未だ代わりとして立てられた、兄弟のいなかった前国王の妻、つまり少年の母の弟の後ろで、王族や数人の従者以外に王だと知られぬまま、王としての器量を高める他に無かった。


王として、するべき事も、民のために出来ることも、全て学んできたつもりだった。考えてきたつもりだった。

それでもまだ、足りなかった。


己の未熟さを呪いながら、

近付いてくる足音と、ドアを開けて部屋を荒らす音を聞き、

少年はゆっくりと窓から見える赤い空と、月を見上げる。


…ここまで、か。


己のいる資料室の隣の部屋のドアを蹴破る音が聞こえる。

次はこの資料室だ。

少年は立ち上がり、せめて傷くらいは残してやろう、と、杖を握りしめる。

杖の上部にはめ込まれた宝石が、少年の思いに呼応するように煌めく。




男たちの動向に集中させている、少年の耳には、

それが降り立つ瞬間まで、何も聞こえていなかった。




隣の部屋から乱暴に物を投げ捨て、この資料室へ向かう足音が聞こえる。

少年が杖を構えるのと同時に、

背後から何か、窓に取り付けられた木枠が軋むような小さな音がした。


驚いて振り返る少年の目に映ったのは、

黒。



髪も、唇も、上着も、その下の服装、靴、手袋に至るまで、いや、その手に持つ刃物の柄も全て、

そしてフードと長い前髪から覗く暗闇に光る目でさえ、

黒く、深い闇に見えた。


敵か、と一瞬身構えた。

しかし少年には、この男に見覚えがあった。


だが、何故、今、この場所に、

この男がいるのか、それを理解する事が出来なかった。


驚きに追っ手が来ている事も忘れ、言葉も発せない少年に、黒の男は窓枠にかけた片方の手を差し出した。


少年は困惑する。


背後からドアを蹴破ろうとする音が聞こえて、やっと少年は己の置かれた状況を思いだし振り返り、そしてもう一度男の方を見た。


「………早く」


無表情のまま、男はそれだけ言い、更に手を差し出す。

この手を掴む以外に無い。



少年は杖を握りしめ、男の手を固く掴んだ。






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第2話に続く。