※表紙絵は後日






泣き止もうにも中々涙の止まらぬソワネの口に余った林檎を突っ込み、
レノは食器を片付けこの小屋を出る準備を進めた。

荷物を纏め、乱れた化粧を直し、蝋燭に付けた火を全て消して、
ソワネにケープを渡し自らも上着を羽織る。

そしてソワネがテーブルを降りようとするのを止め、昨晩のうちに綺麗に洗っておいたタオルの1つを濡らし、何も言わずかけたばかりのソワネの眼鏡を外しその顔を拭き始めた。

「っ、や…」

突然の事に驚きまともに言葉が出ない。
その腕を掴み、己の顔から離そうとするが、レノはそれを物ともせずそのまま続ける。

「…顔が汚い」

補助の無い視力では良く見えなかったが、相変わらず無表情に見えた。
暫くの攻防戦の後に、やっと顔を背け眼鏡をかけ直す。

「……子供なのは認めるから、幼児の様な扱いをするなっ、」

やっと見たレノの顔はやはり無表情だったが、それはすぐにあのからかっている時のニヤニヤとした顔に変わった。
というよりもはや、少しだが声を出して笑っている。
ソワネは思わず睨むが、抑える事もせず、乱れたソワネの前髪を直しタオルをキッチンのカウンターの方へ放り投げた。

「…行こう。今日は歩けるだろ」

テーブルから離れ、ケースを持ち上げてドアへ向かう。

脚は些か筋肉痛の様だが、昨晩の様な震えは無い。
ソワネはテーブルから降りて、壁に立てかけた杖を掴み、レノの後を追って、小屋から出て行った。


森の空気は、王城の周りの物とは比べ物にならない程澄んでいた。
鳥や小動物の鳴き声や動き回り風と共に木々を揺らす音。初めて嗅いだ、森の匂い。
昨晩は暗く見る事が出来なかった、朝露と朝霧に濡れた森は、秋の冷えた風気に赤らみ始めていた。

霧と木の葉に遮られ、陽光は感じるが太陽は見えない。

ソワネの後ろで小屋の鍵を閉めたレノが、ソワネの肩に触れる。

「…行こう」

見上げたその顔は、そっと微笑んでいた。





森に人の通るような道は無く、草むらの中をひたすらに進んでいた。
時折獣道を通る事もあったが、それを辿る事も無く、それが曲がればそこから外れまた草むらの中へと戻る。
昨晩も、ソワネはレノに抱えられたままであったが、そういえば土を踏む音よりも草をかき分ける音の方が煩かった。…そもそも、この男は足音が途轍もなく静かなのだが。

レノは地図を見る事も無く、時折前髪を上げて空を見上げるか辺りを見回す以外は何の道標も無いまま進んでいるように見えた。
しかし、ただ彷徨っている訳でもなく、慣れているのか、きちんとした目的地の方向へと迷わず進んでいるようだった。

何も話さず、ソワネも辺りの景色を見回しながら2人は進んでいく。
何処まで来たのだろう。
抱えられていた間は意識が朦朧としていたソワネには、王国からどの方向へ、どの位進んで小屋まで辿り着いたのかはわからなかった。
今も、王国から見てどの位置にいるのか、そもそも未だ王国の領域内にいるのかもわからない。

この森は全てフィネクス王国領の物ではなく、むしろかなり少量の部分だけがフィネクス王国領に属している。
森の中にも領域を示す看板などがあった筈だが、この森はかなり広く、それは人が入るほんの外側だけで、明らかにかなり深い場所であるこの辺りにはそもそも看板など立てにすら来ていないのかもしれない。

この森の属す領域は、ソワネの記憶ではフィネクス王国以外にあと2つ程あった筈だが、そのどちらへ向かうのだろう。
どちらも、フィネクス王国よりはかなり広く、城下街以外にも小さな村や町があった筈だ。

…前を行くレノに話しかけようにも、全くこちらを振り返る事も無く、たまに横へ並んで見上げる顔は周りの景色へと集中しているようだった。
昨晩のあの男たちがまだソワネを探しているのだと言っていた。それを案じているのかもしれない。
それに、この深い森では、どんな生物がいようともおかしくはない…のかもしれない。
周りの木々を奔る小動物などでさえ、殆ど本などでしか見た事の無いソワネには、少し興味を引くものでもあった。
しかし一方で、小さな子供の身、とはいえ己よりも大きな、言葉の通じない人型以外のモノ、と言うのは想像するだけで鳥肌の立つ物だった。

以前、王城などへそう言った生物などを売りに来る商人などがいたが、何故か直ぐにその場を離れさせられ、チラリとした見る事が出来なかった思い出が蘇る。

そういえば、お父様はよく王城へ来る小鳥達と遊んでいたが、あの人……叔父上は、そういった小鳥達でさえ毛嫌いしていたように思う。
とはいえ、他に王城にいた人間、特にソワネにも同じような態度だったので、ただ単純に周りの生き物が好きでなかったのかもしれない。

そのような事を考えながら変わらず周りを見渡していると、不意に前を歩くレノが立ち止まり、余所見をしていたソワネがその背中にぶつかる。

「っ、あ、すまない、」

すぐに謝り離れようとするが、そのまま腕を後ろへ、ソワネの肩に回し引き寄せられた。
前髪をかき上げ何かを睨むようにあらぬ方向を見つめる。
ソワネも思わずその方向へ耳を向けるが、何も聞こえず、
…否。確かに何かが土と草を踏む音が微かに聞こえた。

「…….ソワネ、身を隠すような魔法は使えるか」

聞こえるか聞こえないかという程小さな声で問われ、ソワネは杖を握りしめた。

「…使えるが、あまり、得意じゃない。あまり長い間維持が出来ない」

王族の中でも、生まれ持った魔力の多さが人一倍である事は自負していた。
しかし、実際に使うとなると、出来ることよりも出来ない事の方が多かった。どれだけやり方を変えようと、自己流でやってみようとしても、本当に簡単な、直感的なもの以外は、魔力はあっても使う才能が無いのか、いつも失敗していた事を思い出す。

「構わない。…直ぐに終わる」

振り向きもせず告げられたが、それでもその目から発せられる殺気を感じ思わず身体を強張らせる。
…こちらを向いていないにも関わらず、命の危険を、純真な、恐怖を感じる。あれをもし、あの目でもし見つめられたとしたら、それだけで死んでしまいそうだとすら思う。

レノに促されるまま、レノが置いたケースを持って近くの木の下に身を隠すようにしゃがみ込む。
震える手で杖を強く握り、囁くように呪文を唱えた。
杖の先に嵌められた宝石がそれに呼応するように淡い光を放つ。

レノはソワネの姿が周りの景色に混ざるのを確認し、今度は上着の内側から小さなナイフを数本取り出した。
昨晩使っていたのと、同じ物だ。
よくあるような木などの柄は無く、刃物の金属がそのまま後ろに伸びて持ち手のようになっている。

それを指の間に挟み、そのままふらりと、木々の間に消えた。
魔法などは使っていない。それでも、地面を踏む音も、草や葉に掠れる音すら聞こえない。

微風に木の葉は揺れているが、それでもここまで紛れる事が可能なのか。
耳や尾、角も、翼も無い、見た目はただのヒトのようだったが、本当に、ただのヒト、だとは思えなかった。

…短い、レノのものではない声が、先程足音の聞こえた方から聞こえてきた。
どくりと心臓が跳ねる。
これ以上聞こうとしてはいけない。そんな気がして、ソワネは思わず耳を塞ぐ。
澄んだ森の空気に、微かに、…血の匂いが混じる。
既に切れかかっていた魔法が杖を手離した事で完全に切れたが、そんな事はどうでも良かった。

ただどうしようも無く、背後にある木の幹に頭を預け目を閉じる。
やはり、彼奴は……。

「…ソワネ」

いつの間にか隣にしゃがみ込んでいたレノに声をかけられ、驚きに小さく声を漏らすが、それは直ぐに口を塞いだ手に吸われ消えた。
相も変わらず、何の感情も映さぬ目でソワネを見つめている。

…今、人を殺したばかりなのに。
黒い衣服に血はついてはいなかったが、少しだけあの匂いが纏わりついていた。
……昨晩も、それどころではなく、気にも留めていなかったが、…いや、今迄にも、一体、どれだけ。

ソワネの大きな目に映る恐怖を感じたのか、レノはその目を逸らす。そしてそのまま立ち上がり、何も言わずソワネに手を差し出す。

一瞬の迷いの後に、杖を掴んでその手を掴み立ち上がったが、そのまま離さず、無言のままソワネの身体を片腕に抱き上げた。
思わずまた、かなりの力で首にしがみついたが、それでも何も言わなかった。
そのまま空いた方の手でケースを持ち上げ、辺りを、少し顔を上げて見渡す。

……違う。
これは恐怖を感じる事じゃない。

「……レノ、」

光の映らぬ闇の目を背を逸らして見つめる。
それは、静かにこちらを見つめ返した。

それの恐ろしさをいやに際立たせるその顔から、すぐに目を逸らしたくなるのを堪える。

「すまない…。」

何を言えば良いのかもわからず、それしか、言えなかった。

レノは何か言いたげに、口を開いたまま止まる。
そして何も言わず、目を逸らしたが、抱き止めるようにソワネの身体を抱える腕に力を入れて寄せた。
応えるように、また、首に腕を回し抱き着く。

「…お前が謝る事じゃない」

無意識に後ろに垂れるように下がったソワネの大きな耳に黒く染めた唇を寄せて囁く。

「……思ったよりも、彼奴らは早い。少し急がないといけない」

正直に言えばくすぐったかったが、それについては何も言わずつられて同じように囁くように問う。

「…どうするのだ?」

持っていてくれ、とケースを渡される。
レノが軽々と持っていたため、ソワネが思っていたよりもそれは重たく、太腿の間に杖の下の部分を挟んで己の身体に寄りかからせ、また首に回した両手に持つしかなかった。
やはり、あの衣装は重たかったのだ。

レノは少し歩き、下にまで大きな枝が垂れ下がっていた木の前に止まり、何かを探るように上を見上げた。

「……上を行く」

どういう事だと、口にする前に、
レノは木の枝に手をかけ、飛ぶように上へ登り始めた。