※表紙絵は後日
王城のバルコニーから飛び降りた時から、身軽だとは思っていたが、ここまでだとは思わなかった。
子供の身とはいえ、ソワネの身体を抱えたまま、飛ぶように木々の枝から枝へと走り跳び移って行く。
…殆ど、音を立てず。
ただ森に慣れているにしては、ただのヒトの身にしては異常であった。
それとも、ソワネがそう思うだけであって、訓練次第では、こうなれるものなのか。
この男を売っていたあの商人の同類に、混じりなどの角や羽などを、切除して売り捌く商人の存在を聞いたことがあるが…
この男に身体から何かが切除されたような跡も見当たらない。
とはいえ、大きく開いた胸元以外は、上着を脱いだ時でさえ、肌はほぼ露出していなかった。
可能性は無きにしも非ず、だが、切除した物は、いずれ生え戻って来るはずだ。
この男と初めて会った時も、今も、しがみつく背中を確認するが、不自然な出っ張りすら見えない。
…下を見るのは、更に恐怖を煽りソワネはまた目を閉じる。
ふわりとした尾は、手の塞がった今は制御しようもなく、脚の間に挟まろうと密着したソワネの太腿と、それを抱えるレノの腕にぴったり寄り添っていた。
ソワネの羽はそのままで飛ぶには小さいが、魔法を使えば少しなら飛ぶことができる。
今迄にも、王城の周りを飛び回った事もある。
しかし、今は、己の制御下でなく、更にかなり速く移動している為に、どうしようもない不安を感じていた。
レノに羽は無く、ソワネも己の倍以上はある身体を、魔力も満足に回復していない、今の状態で抱えられる気はしない。
不意にレノが立ち止まり、ソワネは思わず目を開く。
下を見るのは恐ろしく、後ろを、レノが見ている方をどうにか振り向いた。
いつの間に抜けたのか。
2人がいる大きな木の下には、人の作った砂利の道が、開けた草原へと続いている。
森の入り口には看板が立てられているのが見えたが、この距離では何が書いてあるのかはわからなかった。
しかし、森を抜けたすぐそこにこうも青々とした草原があるのは、森の属すフィネクス王国領以外の2つの王国領のうちの1つしか該当しない。
小さく尖った耳に、大きくぐるりと巻いた角。
尾は小さく大抵衣服に隠れて見えず、縞模様の大きな羽を腰に持つ、シルヴィオ王族が統べるシルヴィド王国の領域。フィネクスとは森を挟んだ向こう側で、かなり離れていた。
王族の名と王国の名が微妙に違うのは、何か理由があったらしいが、詳しい事は知られていない、と学んだ。
隣にあるレノの顔をチラリと見るが、変わらず無表情かと思えば、どことなく険しい顔をしているように思えた。
しかし、流石に汗をかいているかと思えば、特に疲れた様子すらなく涼しい顔をしている。
ソワネが見ている事に気付き、レノは目を合わせた。
跳び回っていたおかげで長い前髪は乱れ、その目はそれに隠れる事なく剥き出しで見つめ合うソワネの金色の瞳を映す。
…今迄と違い、その暗晦に引き摺り込まれるような感覚に陥る。…それは、何かを欲しているように見えた。
心臓が跳ね、思わず頭ごと俯くように目を逸らす。
レノは、長い溜息を吐き、また前の方を見つめ口を開く。
「……ソワネ、前を見ろ」
目を合わせぬよう、言われた通りに、レノの向いている方にもう一度視線を移す。
無意識に大きな耳もそちらへ向けた。
しかし、ただ草原が広がるだけ……かと思えば、
微かにその草をかき分ける音が聞こえてきた。
目を凝らせば、確かにあちらの方から、誰かが、来ている。それも、数人。
それだけでなく、後ろの方からも、土や枝を踏む音が聞こえて来た。
「…囲まれた、のか?」
あの速さでも、彼奴らは、追いついて来たのか。
昨晩ソワネを追って来たあのフードの男達とは、種族が違うのかもしれない。
「……みたいだ。」
しかし、レノの声は至って焦る様子も無かった。
「どう、するのだ」
レノは空いた手で前髪をかきあげ、目を細める。
ゾワゾワとした感覚に、思わず身体を強張らせその顔を見つめた。
…ああ、あれだ。
ソワネを抱えているからか、抑えてはいるが、先程の男に向けていた、悍ましく凍りつきそうな程に冷たい殺気。
「…ここで殺る。…殺るなら森の方が良い…」
段々と消え入るように呟いたそれがどう意味を成すのかはわからなかったが、訊く気にもなれなかった。
王国を、ソワネを襲ったあの男達よりも、この男の方が、恐ろしい。
抱えられた身体を降ろされ、ソワネはケースの持ち手と杖を握りしめ落ちぬように木の幹に寄りかかり座る。
今度は魔法を使う必要も無いのか、何も言われず、レノはそのまま、かなり高い位置にあるその枝から飛び降りた。
数々の枝の間をすり抜け、音も立てず低い位置にある枝の上に降り立つ。
大丈夫、なのだろうか。
腕が立つようであるとはいえ、前後から来ているのは、聞こえてくる足音から判断する限り、10はいる。
この位置からでは、上手く姿が見えず、聞くことしか出来ない。
足音は迫って来ている。
「逃げられると思ったか。」
降り立ったそこから動かなかったレノに、距離を詰めた男達の1人が口を開いた。
やはり、昨晩のフードの男達と、同じ衣服を着てはいるが、その腰から伸びる長い尾が種族の違いを示している。森を駆けるのが、得意な種族だ。レノに追いついたのも理解できる。
レノは、一言も発さない。
「あのガキを差し出せば、見逃してやっても良い。どうだ」
その割には、既に全員が武器を構え始めていた。
レノは、やはり答えない。
「…なあ名無しくんよ。」
その言葉に、視野の端に移るレノの姿が音も無く消えた。
空気を切る音に、片側の男達の1人が倒れる音。
そして、その周りにいた男達が何かと揉み合う音が、何かが切れ、何かが飛び散る音に消える。
聞きたくは無かったが、耳を塞ぐことも出来ない。
必死にそれを考えぬように、別の事を考えようとする。
…あの男は、確かにレノを、呼んだ。
レノは、あの男達と、面識があるのか。
…名前が無いのは本当だったようだが。
未だに、何故レノがあの日あの時あの場所に、ソワネを救いに来れたのかは、教えて貰っていない。
まさか、あの男達に訊いたのか?だが、どうやって?
まさか本当に、あの男達の…。
いや、違う。何故かは言えないが、レノはあの男達の仲間では無い。そう確信が持てた。
ただ、そう信じたいだけかも知れないが。
そうしているうちに、また、レノがソワネのいる枝まで戻ってくる。
どうやら、そう心配をする必要は無かったようだ。
…確かに男達の血の匂いは纏わり付いていたが、どうやったのか、チラリと見ただけでは黒の衣服に返り血の跡すら見当たらない。
しかし、それに、違う血の匂いが混じっている。
伏せて逸らした顔をあげたレノは、口元についた血を拭った。
流石に、無傷で戻って来ることは出来なかったようだ。
「レノ、…だい、じょうぶ…」
ソワネは慌てるように身を乗り出し、ケースを落としかけたが、それはすぐにしゃがみ込んだレノに、ソワネの身体と共に支えられた。
ただ殴られた訳ではなく、刃物で切りつけられたような、口元の、その傷から溢れる血は拭っても止まらず、唇の黒と混ざりグロテスクな色の液体となって顎から流れ落ちる。
「…ソワネ、」
顔は至って無表情だったが、声からかなりの痛みを感じている事が窺える。
もしかしたら、見えないだけで、口元以外にもどこか傷をつけられたのかも知れない。
「な、んだ」
痛みの為か、中々続きを言わぬレノに促すように問う。
そこで始めて、眉を寄せ苦しそうに息を漏らした。
「…治してくれ」
息が詰まる。
まさか。
レノは、そのまま、分かっているだろう、とでも言うように、杖を握りしめる手に己の手を這わせた。
「何、故…」
その問いは答えられる事なく、
レノは上着の前を開き、中に着ている服をベルトなどの下から引っ張るように捲り上げる。
そして、また、動揺するソワネの瞳を見つめる。
肋の、1番下の辺りが、どんな物で、どれ程の力で打たれたのか、かなり広い範囲で既に酷く変色していた。
…フィネクス王族に代々伝わる魔法は、治癒魔法とは真逆のものだった。
それが故に、フィネクス王族の者には、大抵治癒魔法が使えない。使えても、至極簡単なもののみだった。
しかし、ソワネは、何故か、王族に伝わる魔法の代わりに、治癒魔法を得意とした。
この事実は、父上しか知らなかった事だった。
王城に仕える召使いや騎士団などはもちろん、他の王族の者達にすら伝えていなかった。…あの人、叔父上ですら知らない。
知られないようにしてきた。
それなのに何故、この男はそれを知っているのか。
稀に王族が使える簡単な治癒魔法では、こんな怪我は治せない。ソワネの太腿の合間に垂れ、枝の木肌に落ちる血を止める事すら出来ない。
それをソワネに頼んでくるという事は、ソワネがそれ以上に使えるという事を知っている。それしか、ない。
「…ソワネ…」
吐息に混じるように名前を囁かれハッとする。
そんな事を考えていても仕方がない。
…きっと、訊いても答えてはくれないだろう。
それよりも。と、ソワネは杖を両手に持ち直す。
それを横にし、魔力を集中させ、治癒魔法に使う物へと変える。
杖の先に嵌め込まれた宝石が、キラキラと煌めいた。
変換が完了し、ソワネは杖から手を離した。
杖は落ちる事なく、2人の間にふわふわと浮いたまま、その場に留まる。
ソワネはその小さな両手で、まずは血の止まらぬ口元の傷からと、レノの頬を包むように掴む。
そして、目を閉じその傷に口付けた。
少し開いた口にその血が流れ込んでくるのも構わず、血が止まり傷が完全に塞がるまでそのまま唇を添え当てる。
唇を離し目を開けば、レノは意外にも少し目を見開いていた。
「…そんな使い方だったのか」
声はまだ低く掠れていたが、先程よりは痛みが紛れたようだった。
「……手で、出来ないんだ。まだ…。」
今更だが、指摘された事で少し恥ずかしくなる。
他の王族の人間に比べ治癒魔法が得意とはいえ、隠し通す為に練習も出来ず、唇から、直接、体内に宿る魔法を傷に送り込む方法しか取れない。
まだ、腹の傷が残っている。
未だ見つめてくるレノと視線を合わせぬように、その肌に手で触れ顔を近づける。
先程はきちんと見ていなかったが、よく見ると、今迄どうやって生きてきたのか、かなりの量の傷跡が残っていた。殆どが消えかけた小さい物だったが、中にはかなり深く刺されたような物や、ソワネの小さな身体と比べ厚く広い身体を横切るような大きな傷跡もある。
逸れた気を集中させるように、深く息を吐く。
そして、また、今度はその肋の1番下の辺りから、腹にまで広がる変色した痣に唇を寄せた。
レノが、少し息を呑むのが聞こえる。
骨が折れていたのか、治している間も、痛みが酷いようで低く唸るように短く声を漏らしていた。
治療が終わり唇を離しても、息は荒く、見上げた顔は苦しげに眉を寄せ目を閉じている。
朝、目覚めたあの時と同じ、ソワネには言い得ない感情が頬を熱くする。
「…レノ、大丈夫、か?」
声が震える。
何も言わずに開いた目は、どこか潤んでいるような気がした。
ふわりと下へ落ちる杖を手に取るソワネを見つめたまま、長く息を吐いて整える。
「……ああ、ありがとう」
レノはそっと微笑み、答える。
乾き始めた口元の血を拭い、ケースをソワネに渡し衣服を直す。
中々治らない、訳もわからず赤くなった顔をこれ以上見られぬように伏せるが、それはすぐに頬を撫でる手に上を向かされ意味をなさない。
見ればその手の主は先程の微笑みと違い、にやにやと笑っていた。
「…どうした」
何故こうもソワネの瞳を見つめたがるのかはわからないが、
大きな手に顎を掴まれ顔を逸らす事が出来ず、必死に目線を合わせないようにする事しか出来ない。
「……わからない。お前の、…瞳は、見つめていられない。」
何となく誤魔化してみるが、それも見透かしているかのように小さく笑う。
「顔じゃなくて?」
この男は、分かっていてやっている。
思わず睨むソワネの瞳を見つめたまま、空いた方の手をソワネの身体に、肋の辺りから下へと這わせる。
顔からは手を離し、その手は抱き締めるようにソワネの背中へと回した。
「何、…」
その大きな耳に、また、唇を寄せて息を吐くように囁いた。
「解らなくて良い。…お前はまだ子供だから」
そしてそのまま、ソワネが何も言えぬうちに、また片腕へと抱き上げる。
片手ではケースを持っている事が出来ず、慌てて杖をまた太腿に挟み、しがみつくようにその首に腕を回しケースを両手に持つ。
何か言えば良いのに、と、文句を言おうとしたが、治癒魔法を使った疲労からか、それ以上腕に力が入らず、レノの首元に埋めた口を上手く開く事が出来なかった。
先程流れ込んで来たレノの血の味が、飲み込めずにいやに口内を満たす。
「……また追っ手が来ないうちに、町まで行く。歩けるようになったら言え」
降ろすから、と付け加え、
森の底に並んだ遺骸をソワネに見せぬよう、枝を飛び移り草原へと続く道へと降り立った。
つづく