男は繰り返す。
問いかけと暗示。
仕事。仕事。仕事。
『彼』を思考から掻き消す術は無い。
冷たくなった誰かの身体にその誰かを怒らせた誰かの得物を落とし
男は闇に消える。
獲物の事などこれ以上は知りたくもない。
必要な情報は揃っている。
どちらの誰かも、殺されるに値する。死んだ誰かは死んだ。依頼した誰かもこの死体の持つ証拠から、然るべき所へ連れて行かれる。
男は悪のみを罰する。
………そのはずだが。
(何故、あの猫を、殺す依頼を受けたのか)
依頼人は紛れもない悪だ。
しかし手を出しづらい事もあり、獲物である猫を殺しその証拠などが依頼人に向くようにすれば…とも思えるが、
スラムの側のただの娼婦など、正義は見向きもしないだろう。
ならば何故なのか。
ただの気まぐれだろうか。
それは男にもわからない。
アレから…
猫の首筋に噛み痕を残したあの日から、
それまで以上に猫の事が思考を占める。
獲物の事など知りたくもなかった筈なのに、
猫という獲物は執拗に誘い、客ではない扱いをする癖に、プライベートな事となると知られたくないとばかりに引いて行く。
これのせいか。男は情報を求める。
しかしこれも猫の技かもしれない。
そして猫から向けられる興味も、気まぐれかもしれないが…。
あの耳も、目も、本物の『猫』なら、
性格もあるいは。
(…あのような半動物のような人間は、
裏ではもはや珍しくもない。)
しかし今までの言葉は、嘘には聞こえない。
…………今も。
男の脳には、猫の声が響く。
白目のほぼ無い、…夜のせいだろうか、瞳孔の開いた紅い目。
目を閉じればその目が求めるようにこちらを見ている。
睫毛は長く、多く、髪と同じ色をしている。
髪も目と同じ紅の、長い…『猫』の毛のようで。
肌は少し赤みを帯びた…並の肌色よりも幾らか白に近い色。
…眠っている『彼』の肌に触れてみる度にパチリと目が開き、感触はよくわからぬままだ。『彼』が完全に起きている時はそれどころではない。
柔らかい…赤い唇の、下の両端に輪のピアス。
舌は…同じく『猫』のように、少しザラザラしていた。
歯もやはり『猫』のように、犬歯は鋭く尖り、その奥へと並ぶ歯も常人よりも尖っていた。
よくあの歯で、…あのような仕事が出来たものだと思う程に。
その口から発せられる声も、
誘う時は甘く、
…素はそれに比べかなり低いが、なんとなく人間にない響きがある。
………そして
癖で似非た声を出してしまわないようにつぐむ口の間から…痛みからか快感からか漏れる声は、誘う時とは違う甘い高さ。喉に引っかかる様な、かつ鼻にかかったような。
その声が、響く。
男を求めるように、
…男が求めているように。
もはや男にとってあの少女にしては妙な違和感のある娘(りお、と言ったか)と、あのやたらと耳の長い蛇(二人はお兄、と呼んでいた)の事すらも、疑問はないとは言えないが、どうでもよかった。
ただ『彼』自身の事が知りたい。
……………知りたい。
男は闇の中を漂うような足取りで、
『誰か』の元へ向かっていた。
あの猫を、…コウを、殺せと依頼してきた『誰か』の元へ。
電話は既に済ませてある。
というよりも、玄関にいきなり現れても、会ったこともないフリをされ、…少々過激な門前払いをされる恐れがある。
予約も面倒だが、そちらの方が面倒な事になる。
………何故其処へ向かっているのか。
男自身もわからない。
ただ何も考えず、足の赴くままに、
…向かう先が其処だった。
予約は、気付いたらしていた。
其処へ行って何をしようものかもわからない。
『彼』について何か訊き出せる事も無いだろう。
………しかし
何か一つでも、
…この声と、…誘うように絡みつく手の幻覚を、掻き消す物があるならば。
廃れた路地を、都市の方へ。
…いつも居た街外れと違う、
綺麗に舗装された道路、空気は澄んで…と言っても彼処に比べれば、だが。
車などの排気ガスは、人によっては彼処よりはマシとも言うだろう。男にとってはまた違った悪臭でしかない。
都市の方へ、とは言えど。
人に見られぬように、人気の少ない裏路地のみを通って行く。
するとまた、石畳。といっても歩道だけだが。
しかしやはり彼処とは違い…沢山の物が入り混じった何かに汚れていない。
此処は、
都市でも所謂『お金持ち』の住む場所。
少し坂を登り、見えてくるのは立ち並ぶ豪邸。やたらにでかい家と、所によりやたらにでかい庭。
そのおかげか空気は下より澄んでいると言えよう。
元々人の通りは少ないが、
深夜にも近いからか光を灯す家は少なく、
街灯はあれどずっと暗い。
その先へ歩を進める、
男はフードを被り長いコートのポケットに手を突っ込んだまま。
身長と共に歩幅が大きいのもあるが、ゆっくりと歩いている。
しかし迷いは無い。
己が何をしようとしているか考えることはせず、
…………否、それすらも考えられぬ程『彼』がまとわりつく。
ふと見れば、
切れかかっているのか。チカチカする街灯の下に、
白い猫が一匹。
近付きよく見ればそれは、『猫』の部屋にいたあの白い猫。
…男が見たのは、『猫』が抱えている姿だけだが。
「…………何故ここにいる」
思わず呟くように言う。
白い猫…ミケは、警戒をしているのか、こちらには近付いて来ない。しかし怯えたわけでもないらしい。
しかし…。チカチカと点滅を繰り返す街灯と、曇り空の下にしては、緑色の目は不自然な程にキラキラと輝き、雪の様に白い毛は、同じくキラキラと、かつ透けるよに輝き光る。
…………この猫も、コウやあの蛇と、同じなのだろうか…………。
『猫』も蛇も、見た目からしてタダの人間ではない、という事は分かっている。
あのような半動物のような人間は、裏では珍しくないとは言ったが。…このような高級住宅街で仕事の依頼人と会う時に見かける事もあった。
…………彼らが何処から来ているのかも、男は知っている。…………その何処か、は、男がこの仕事をしている理由にもなっている…………。
その何処かは、表でも騒がれてはいるが、かの正義は、見て見ぬ振りをする。
…振りをするしかない部分も、あるのだが。
男は街灯の前で止まり、
足元の猫を見る。
ミケは男を見上げ、小さく鳴いた。
耳がピクリと動く。
…どうすることもないと判断した男は、そのまま横を通り過ぎる……
その瞬間に、目の端はあり得ぬ物を捉えた。
また一つ鳴きながら、ミケの白は男の目の端の視界を埋めた。
振り向くが、既にそこにミケはいない。
しかし闇には、その声が響く。
男はしばらく空虚の闇を見つめ、
振り返りまた、目的地へと歩き始めた。
暫く歩き、道路がT字に変わるその先に、他より一際大きな家。
華やかな門と、その先の庭と、そのまた先に白煉瓦の家と。…門の端と端には、隠す気もない監視カメラ。
男はそのカメラを見つめ一瞬映りすぐにその視界から外れる。
灯りとフードで男の目のみが光るように映るようにした。
そして、遠回りだが、家の敷地の裏へと周る。
こうでもしないとこの家には入れぬのだ。
家から出たがらない引きこもりの依頼人と取り決めた方法である。
少しして裏の門、そして扉が開き、ガラの悪い男に招き入れられる。
依頼人のボディーガードだと聞いた。
そのボディーガードに通されるのは、扉の近くの階段を降りた、地下室。
そこに依頼人がいた。
「”Baby-doll”は殺ったのかね」
挨拶するでもなく、刺青の男が口を開く前に依頼人は言った。
「…………さあな」
それを刺青の男は無感動に答える。
「……なら何をしに来たのかね」
依頼人は、怒り気味に問う。
暗い灯火の下でもわかる、
外国製の巻きタバコを咥えた口元はへの字に歪み、
やたらとでかい石のついた指輪を付けた手はしきりに座っている椅子の肘掛けを撫でている。
小さな目は男を睨み付けるが、男に睨み返されると、直ぐに少し視線を逸らした。
…無理もない。
依頼を受けて、とは言え、何人もを殺してきた殺し屋が、…殺人鬼が、目の前に居るのだ。
確実な証拠の抹消と操作により表には微かなる影しか存在せぬものの、裏ではその存在は、しっかりと、悪なる背中に巨大な影を落とす。
依頼された獲物は、決して逃すこと無く、依頼されたその方法で、遠い向こう側へと流されるのだ。
………刺青の男自体は依頼人へと証拠が向くように設定しているが、例え依頼人がそれで表の正義とやらに捕まっても、依頼人は男の所為だとは気付かない。
…ましてや気付いたとしても、他の仲間共に警告する隙は与えない。
依頼人はプライドにより態度は強気にはなるが、内心は他の疚しい思いを抱えた大物達と同じ。
………次は自分かも知れない………。
男はそのまま目を逸らさず、
静かに依頼人に問う。
「………何故あの猫を殺せと依頼した」
依頼人はそれを聞き、怪訝そうな顔をする。
「……今更それを訊くかね」
「答えろ」
男の声は冷たい。
無情にただ依頼人を睨み付けるだけだった目は、賤しいモノを見る目へと変わる。
「…俺はてめえみてえなのしか殺らねえと言った筈だが」
「……それは脅しかね。」
依頼人のボディーガードが身構える。
(………遅すぎだろ)
思えど口には出さない。
「………さあな。いいから答えろ」
男はただ動かない。
依頼人はタバコを指に挟み、
ボディーガードに構えるなと合図する。
そしてふんと鼻をならし肘掛けに肘を立て見下すように顎を上げる。
「ただの私怨だ。…それにあの容姿を見てみろ。あの様なのは……。」
「………あの猫が殺さなきゃいけねえ程の事を出来るとも思えねえが」
「ヤツの鼻を舐めてはいけないよ。」
「……………見られて困るものを見られちまったって事か」
「…まあそうとも言うだろう。さて、そのような下らない質問をしたのには訳はあるのだろうね」
男は暫く無言で依頼人を睨む。
そしてそのまま振り返り、階段の方へ歩く。
「…………依頼は却下だ。んな下らねえのはてめえで殺れ。…見送りはいらねえ」
唸るような、低い声。
少し立ち止まり、階段の横の棚に、
依頼人の家からくすねた得物を、置く。
…『猫』の首に傷を付けた、あのナイフだ。
「……貴様」
それに気付き依頼人は怒るように立ち上がる。
ボディーガードは銃を抜いた。
男はそれに構わず階段を上る。
「待て…!」
ゆっくりと階段を登りながら、
男は顔だけ振り返りボディーガードを、そして依頼人を鋭く、冷たい、目つきで睨む。
「…………忘れるなよ」
…………次は、お前かもしれない…。
それだけ言い残し、焦り怒る元依頼人とボディーガードを背にまた闇へと消えた。
…………その数日後に、男はまたあの豪邸へと戻った。
今度はまた新たな誰かの得物を持って。
…男は繰り返す………。
つづく…。