一章の一





夜。

街外れの時化た一区、いわゆるスラム街。
派手な衣装に身を包み、客を呼び客に呼ばれ溢れかえる人々の中をすり抜けるように、
外れ外れへ、駆けて行く。

石畳を引っ掻くヒールの音は、己を追うモノを誘うように響き、奥へ奥へと進んでいく。

やがて人の居ない暗い裏路地へ辿り着いた紅い猫は振り返り、行き止まりと告げる壁に背中を預け、闇の中に光る目を見つめた。









「追い詰められちゃった………かな。」


フードを被った青年が、口を開く。
しかし、訳も分からず(いや、理由には何と無く心当たりはあったが。)、手に握られた黒い物体から予想して、恐らく殺す気で追いかけてきた相手に追い詰められたにしては、余裕そうだった。

追いかけてきた相手もまた、フードを深く被っていて、顔はほぼ見えない。
ただ、ゆっくりと近付いてくる。

(…これは流石に、やばいかな。)

今までにもわざと、か…事故か、殺されかけた事はあるが。ここまで冷たく、静かで、鋭い殺意を向けられたのは初めてだ。
全く知らない人だ。私情ではない。雇われ者か。…とにかく、このままでは確実に殺される…………。


「あの…さ……」

相手の様子を伺いつつ、どのようにして逃げるか、周りを見渡すが。

周りはコンクリートの壁。
横は通り抜けられない。
壁を登りでもしない限り、逃げることは無理だ。
そもそも、逃げたとして、撒けるのか…。
ここまで追いかけてきたのだ。今更逃がしてくれるわけもないのだろう。

「……俺まだ、殺されるわけにはいかないんだよねぇ…」

逃げる気を無くしたのか、まだフードの下から睨んでくる相手に近づく。

「残念ながら。」


相手は、動じない。



(さて、二人ともフードを被っており、追い詰められた方のハイヒールにより身長差もあまり無く、追うものと追われるもの、以外に区別のつきようがないので、追い詰められた方の、脚に沿ってゆらゆらと揺れる尻尾のようなものから、彼を「猫」と呼ぶことにする。)



猫は少しだけ前のめりで、
上目遣いで相手を見つめる。

しかし相手はただ無言で…目が合う。


先程はフードのせいで暗くてわからなかったが、無表情。
殺気と同じく、ただ冷たく、静かだ。
職業柄、様々な人間に会ってきた。
しかしここまで、の人間には会ったことがない。

興味深い…とでも言うように、猫はニヤニヤと笑う。

「………ねえ」

これくらいの事で止めてくれるとは思えない。
しかし、物は試し…と言えるか。

「…俺の職業、知ってるでしょ。ねえ、シない?」

このような時に”職業”、いや、”金稼ぎ”を考えられる、というわけではない。
ただ、この冷たい冷たいプレデターとやらに興味を持っただけである。

しかし、相手はただ無情にこちらを見つめるだけだ。

「……あ、男はダメ?かな。大丈夫、俺可愛いからすぐ慣れるよ。ねえ、金は取らないからさ」

猫は依然ニヤニヤしたまま、触れるギリギリまで近付いた相手のフードへ手を伸ばした………

瞬間。


猫の、首筋に黒く光るー…ナイフが、あてられていた。

これには流石に吃驚したのか、伏せ目がちだった目が、大きく開いている。
それもすぐ元に戻ったが。


その首筋に刃先をゆっくり、切れぬよう食い込ませながら、
低い、低い声で言う。

「………命乞いか、”Baby-doll”」


ベビードール。
無論猫の異名である。
なんていう名前がついたのも、前が開きまくったフード付きパーカーの下から覗く、仕事用のベビードール…らしきものの、せいだろう。

しかし猫は懲りない…どころか、首筋に当たる切っ先に快感を覚えたかのように頬を赤らめて、

「…命乞いっていうか、あんた、美味そうなんだもん。」

などと口走る。

「…黙れ売女」

男は、さっきよりも低くドスの効いた声で唸るように呟く。

売女…などと呼ばれるのも仕方がないだろう。この猫の職業というのが、いわゆる春を売る……。…”婦”ではないが。

刃は更に食い込み、ついに血が滲み流れる。

流石にこれには痛みを覚えたか、猫は少しだけ顔を歪め、少し、後ろに下がる。


「…まだ嫌だ、って言ってるでしょ。もーちょっと待ってくれない?」


相手は微々だが、戸惑ったような様子を見せた。

今までの獲物は皆、命乞いをするか、諦めたように…処刑を受け入れた。
だが、此奴は違う。

受け入れるでもなく、拒否するでもなく…。

「…………理由を訊こうか」

猫は目を細め、子供のように赤い舌を突き出す。

「お前なんかに教えるわけないね」

そして、自嘲的な笑みを浮かべた。


男は、暫く無言で猫を眺める。

脚の間にあった尻尾のようなものは、低い位置でゆらりゆらりと揺れている。
先程の笑みは瞬に消え、また、ニヤニヤしながらじっとこちらを見つめていた。

その目は、瞳が大きく開いているのか、黒く、暗い…闇を思わせる。


「…時間だ」

腕時計を一目見た男は舌打ちをして、小さな声で言い、血を上着の内側で軽く拭いたナイフをしまう。

呆気に取られたような顔をした猫に、

「…保留だ」

とだけ言って、相手は背中を向けて歩き出した。


その背中に、猫は駆け寄り抱きつく。

予想に反して抵抗も何もしない男の耳元に、

「……………あんたにはヤられたいんだけどねぇ」

と、残念そうに囁く。


「…死にたい奴殺してもつまらねえんだよ」

振りほどいて、呟いた。


「…じゃあせめて」



「…………男とヤる趣味は無え」










つづく└('ω')┘