………あの日から数週間は経つ。
窓の外は暗く、雨の降る音だけが響く。
コウが夜にも関わらず部屋にいる理由は、この雨にあった。
特別何かあるわけではない。
やはり猫な故か、シャワーなどは辛うじて平気とは言えど水に濡れるのは苦手なのだ。
部屋の中もやはり明るくはないのは
殆ど家具が暗い色のせいでもあるが、電気もベッドの隣の小さな棚の上にあるものしか付けていないからだ。
しかしやはり猫なので、これでも全く問題はない。
しかもそろそろ寝ようかと思っていた所だ。
何時もよりは随分早いが、特にやる事もない。
バーの方はまだ開いてはいるが、
メインの仕事をする気のない時にやるキャバ嬢のような接客(ただ来る客の話し相手になることだが。)は、今日は何処か気分が乗らない。
上手く言えぬ予感のような物が、
ずっと思考の隅にある。
これは恐らくあの日から、一度も刺青の男に会っていない事も関係しているのだろう。
欲求不満とも言えようか。
気になってしきりに撫でていた噛み跡は消えてしまった。
何故あんなにも気になっていたのかわからない。
他の客にも様々な痕は残されるが、
どれも全く気にならぬ所か、気分の悪い日は早く消えろとまで思うこともあった。
とりあえず座って見たベッドの上に、ミケが甘えたように鳴きながらやってきた。
主人が寝るとわかって一緒に眠りに来たようだ。
コウが差し出した手に擦り寄り撫でろとせがむ。
喉を鳴らし、倒れるように丸まり撫でるコウの手を爪の出た前足で掴む。
「………ミケ、痛え」
言葉遣いこそ荒いが、声は優しい。
ふわりと笑い、片手でミケの頭や腹を撫でてやる。
より一層大きく喉を鳴らし、
緑の目と、白い毛は、光りだした。
いつもならそのままにしてやるが、
……しかし何故だか、上手く言えぬ予感は強くなりコウはミケを抑える。
「…ミケ、待て」
既に変化しかけたミケは主人を見上げ問うように鳴く。
そして耳は微かな音にドアの方を向いた。
ミケも、コウも。
「………ミケ」
言うまでもない、と言ったように
ミケは元の大きさに戻り、ベッドから降りて部屋の端の自分の寝床へと戻る。
雨音ではない、何かの音。
ドアに近くなるごとにはっきりしていく、
…足音。
(これは………)
間違いない。これは、
…刺青の男の、ブーツの音…。
コウが立ち上がると共に、
ドアを叩く音。
元々鍵の開いたドアを、
ゆっくりと開く。
「………お前」
恐らく傘も差さずに来たのだろう。
髪も顔も服も全て雨に濡れきって、
雫が垂れている。
しかし何も言わず男は部屋に入ってくる。
目もコウには合わせず、あらぬ空虚を見つめているようだ。
少しして立ち止まり、
ドアを閉めるコウを背に一番に濡れた黒いジャケットをそっと脱ぐ。
その背中を見つめ、
濡れはねが治まった銀の髪を触る。
(………本当に濡れた狼みたい)
手は雫に塗れたが、それも気にしない。
…それよりも、髪を触りやすいようにと近付く程に匂う、
血と汗と雨に混じった、…女の匂い。
そちらの方が気になる。
男が”普通”であることは分かっていたから、女の匂いなどしても不思議はないが。
…その状態でここに来られるのは、少し複雑な気持ちがしないでもない。
離れジャケットを床に落とす男の前にまわり、振り向きつつシャワーを勧め…
ようとした、その瞬間。
男に抱き締められるように、ベッドに押し倒された。
「………風邪引くぞ」
この男が病気をするようにも思えないが。
「……………てか、ベッド、濡れっから…」
降りては欲しいが、何処か離れて欲しくはない気もする。
男の目は、先程とは違いじっとコウの目を見つめている。
いつも通りに無表情かと思えば、苦しそうに眉を寄せて。
その表情と、両の色の違う目に見つめられ、
前と同じ、…いや、前よりもずっと何かが昂り、胸は高鳴る。
ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込む。
男は何も言わず、コウの首筋に顔を埋めた。
その髪と肌が当たり少し身をよじる。
「……お前、冷たい…」
より近くなった女の匂いと、刺青の男の匂いとが混ざり、首筋に当たる少し荒い吐息が一層コウの心中を複雑にさせる。
男はそのまま唇をコウの耳に近付け、唸るような低い声で呟いた。
「……………おかしいんだよ…」
これは近頃の男の思考の話だろうが。
コウにはそんなことを知る由もない。
しかし何が、と訊く前に、
男の唇は下へと戻り、その首筋に思い切り歯を立てて噛み付いた。
「痛え!!!」
無論、痛みに男の身体を押して飛び起きる。
「何すんだよ…」
噛まれた辺りに手をやれば、
ぬるっとした液体が手に触れる。
場所は前の時と同じくらいだろうか。
しかし噛み付く力は前よりもずっと強いだろう。
困惑に膝立ちとなった男を睨む。
が。
男もまた困惑したような顔でこちらを見つめていた。
「……………何赤くなってんだお前」
言われてみれば。
顔が熱いような気がする。
実際は気がする、所ではなく、コウの頬は真っ赤に染まっていた。
それも興奮とか言ったものはあれど大分照れたような感じだからか、男は戸惑いを隠せない。
当の本人は指摘されて更に恥ずかしさなどを覚えたのか、
「赤、くなって、な…なんなんだよ、もう」
とだけ呟き両手で顔を隠してしまった。
…今までとは違う男の態度と行動に調子を狂わされ、
鼓動はずっと速く、今までとは比較にならぬ程何がが昂り目が眩む。
そしてやはり何故か、何処か、羞恥心のような物が拍車をかける。
何故こんな状態になっているのか、コウにはわからない。
男はその様子を動かずただ見つめる。
それをコウは顔を隠したまま、もう一度シャワーを勧める。
場所を説明された男の足音が風呂場へ消えると共に、顔から手を離す。
心臓が落ち着かない。
暫しそのまま。
男がシャワーを出た後に着る服が無い事に気付き、コウは鼓動が収まったのを確認して立ち上がり、風呂場の方へ歩いていく。
その際に部屋の隅にいるミケが寝床から頭を覗かせてコウを見つめ鳴きそうに口を開くが、
そっと唇に指を立ててシー…っとやれば、寝に戻る。
そして風呂場の扉の前までやってきて、
透けない硝子の扉越しに話しかける。
「……ねえ、服…これ洗濯機入れるから。」
足元にまるで己の家のごとく脱ぎ散らかされた滴が垂れる程浸潤した男の衣服を、隣にある洗濯機の中に突っ込む。
ボタンを押して、洗剤を入れて、後は放置。
「…………代えのは俺のじゃ入らないだろうから、お兄に借りるよ、いい?」
…例え入ったとしても、あまり彼のような男が着れるようなものは無いが。
当の本人は、手は止めたようだが、黙ったままである。
返事はないが、
(……否定もしないってことは良いってことなんかな。)
「…………じゃあそうするよ」
仕事の時のような口調が良いのか、素のままで良いのか上手く決める事も出来ず、
先程から調子も治らず
口調も声色もおかしくなってしまう。
それが更に羞恥に拍車を掛ける。
何も言わないのを確認し、風呂場を離れキッチンの隣の壁にかかっている、
電話に手をかける。
電話、と言っても内線のみで、バーの中にある電話としか繋がらない。
あまり電話を好まないコウにとっては、これで良いのだが。
蛇の部屋にかけ、服を持ってくるよう頼む。
…洋服を持っているのは知っているが、普段は和服しか着ているのを見たことが無いので、棚の奥から探すことになるだろう。
時間がかかると予想し、外で待つのは控えた。
雨は先刻よりも強く降っている。
「…珍しいなお兄が傘差すなんて」
少しして服を届けに来た蛇と、外に出て話をする。
足音はわざとか無意か寂々たる物で、今だに集中無しでは聴き取れない。
ましてやこの雨では、蛇がドアの向こうから呼ぶ迄は来ている事に気付けもしなかった。
その蛇はコウの言葉に答えるでもなく、ただコウの顔をじっと見て口を開いた。
「………顔が赤いね、なんで?」
…まだか、と思いコウはあらぬ方向に目をやる。
「………………しらねえよ」
蛇から服を受け取り、
離れようとした所を緩く、抱き締められた。
元々身長も高い方で、更にハイヒールを履いた状態のコウでも、頭の天辺がやっと蛇の肩に届くくらいだ。
ここまで近ければ当然か、
ふわりと漂うお香のような匂いは、コウにとっては噎せる程強い。
悪い気はしないが、何故だろうかと怪訝な顔をしてコウは蛇を見上げる。
「…なんだよ」
「いや………ね」
蛇はいつも通りの笑顔から、
少し目を開き悲しそうな顔をして片手をコウの頬に当てる。
いつも和服の袖に隠れて見えない手は細長く、顔よりもどこか緑っぽく…というより、手の甲にははっきりと鱗のような物が生え、
爪はコウのものよりも長く尖り、
指輪やブレスレット、バングルといったものを幾つもつけている。
「………やっとの恋が」
その声はいつもより高く、甚々しい。
「掃除屋っていうのが気に入らなくてさぁ」
眉は下がり、悲壮と共に愛しげにコウを見つめる。
あまり見ない表情と、言葉にコウはまた困惑したような顔で蛇を見つめ返す。
「…………こい?」
その頬を撫でて、
「……彼、それ待ってると思うよ」
と言ってコウから離れ、蛇はバーの方へと静かに消えた。
コウはその言葉の意味を考えるが、本当にそんなものかと懐疑するまま、
(………まってる)
それもそうかと少し急ぎ気味に中へ入る。
「…服ここに置くぞ…………お?」
蛇の言葉への疑問で羞恥も何処かへ飛んだのか。
シャワー中の男への報告に、つい素が出てしまった。
そしてそれよりも言い切る前に、
水を止める音と、その後に男は出てきた。
コウに構いもせず、洗濯機の上に用意しておいたタオルを取って身体を乾かし始める。
……その男の身体と、その身体を這う刺青を眺め、不意に口元が緩む。
身体は大きな身長にバランスの取れた筋肉質、
流石にこのスラムで殺しの道を歩んでいるだけはあるか、抵抗された時にでもつけられたのだろう、様々な形・大きさの傷跡。
刺青はやはり背中から上半身と、顔に伸びている所謂トライバルの…翼とも取れるが、長く背中を向けてくれず確証は得ない。
…その首の鎖のネックレスに指輪が二つ。
乾かし終えたのか、コウの手から服を取る際に満足気にニヤける顔を見て
「……んな目で俺を見るな」
唸る。
「…にしてもこの刺青凄えよなぁ……」
あとは上を着るだけと、
服を取られ手の自由になったコウはここぞとばかりにその身体を撫でるように触り出す。
「触んな」
その手をはたき、男はさっさと上を着ようとするが。
男の髪から滴る雫を見て、先程のタオルをその頭にかけ少し雑に擦るように乾かし始めるコウを睨む。
それを見つめ返す目が、…瞳孔が暗くもないのに大きく開きだし、頬はまた赤く染まりだす。
やはり、反応が前と違う、と男も疑問を抱く。
「……痛え」
乱暴に動かす手を思い切り掴む
「痛…っ」
その手もまた仕返しするように力が入っていて、コウは小さく声を漏らした。
そのまま。
手を掴まれ、見つめられ(実際には睨まれているが)、コウはまた何処からか、
身体の奥から熱が湧き上がるのを感じた。
心臓が、痛いほどに煩い。
(…………これ…さっき、お兄が言ってたの…………)
前は例えあの様にされても、こんな風にはならなかっただろう。
クスクス笑って、ふざけて、からかう様に誘えたのに。
暫く会わぬ間に、………自分はおかしくなってしまったのだろうか。
…昔、小さい頃に読まされた絵本を思い出す。
(………………………なんで)
自分は、この男が、
(………今)
好きなのだろうか。
眩む思考に生まれた自覚と共に突如、
身体の奥底から来た悪心に
コウは思わず口を抑えて男の手を振りほどき、
すぐ横の手洗に消える。
思考を占める、
『汚い』という感情。
(……………こんな昔のこと)
紛れもない、……幼心に感じたそれが、
…………初めて、そしてその後何度目かもわからなくなったその時まで、自分の身体、と、それを弄ぶ…あの人と、知らない幾人もの誰かに感じた、『汚い』が、
何故、今になって、蘇ったのか。
(………俺、………汚い)
何も出ない嘔吐を繰り返した後、
嗚咽するよう震えるコウを、男は静かに見つめる。
少し上げた顔は先程とは正反対に色を失くし、唇からは唾液が垂れ、目は光を映さない。
…其の端に溜まった涙に目を留める。
男はぼうっとするコウの肩に手を置き、ふと顔を上げたコウに促す。
「………口洗え」
「………もう、大丈夫」
洗面器で口を洗い、暫く男に肩を抱えられたままぼうっとしていた。
(………優しい)
混亂と自己嫌悪はそれだけで溶けて消えた気がした。
今は唯淡く残る悪心と脳が上手く働かない。
男から身体を離し、頭を抱えたままキッチンの方まで歩き、シンクの横の水切りのカゴからガラスのコップと、あまり物の入っていない冷蔵庫から牛乳を出しコップに注ぎ、それをゆっくりと飲む。
その際に足にミケが絡んで来たが、
…背後から来る気配に足早に逃げた。
気配は、もちろん刺青の男であった。
何をするのだろうか、と振り向こうとした所に、抱きつくようにコウの腕と身体の間から、手が伸びてくる。
結局上は着ずに来たようで。
まだどこか湿ったその手はコウの上着のファスナーを下げ前を開かせ、露わになった肌を、腹から始まり徐々に上へ上へと撫でるように触る。
同時にコウの首筋に甘く噛み付き舐め上げる。
(…………なんで)
悪心は消え、代わりに熱に頭が眩む。
恍惚に身を任せ、次第に息が乱れる。
それを狙っていたかのように男は手を離し、
コウの肩を掴み向かい合わせて荒々しくその身体をベッドの方へ押す。
突然の事に躓きかけ、さらに脚がベッドにぶつかり、反射的に男の腕を掴んでしまい男も巻き込んで転げるように、押し倒されたような形になった。
…そもそもそのつもりで、コウの身体を押したのだろうが。
その際にベッドの端にひっかかり、片方のハイヒールは床へ落ちた。
頬は赤く、とろりとした目で問うように男を見つめる。
男はそのもう片方のハイヒールを脱がせ、
倒れた際に大きく開いた胸元に唇を寄せた。
(……………………なんで、)
このような事は、絶対にしなかった。
(…………今回は)
胸から首元へ、そしてまた胸へ。
キスをするように唇を当て、
舌を出して舐め、
時折噛み付く。
…男からの初めての愛撫に、
今までとは比べ物にならぬ位に、熱を持って善がる身体に戸惑って、
不安に指を噛む。
今迄にも、客などにこのような愛撫をされたことはあるが、
やはりこのような感覚にはならなかった。
このような感覚など、感じたことはなかったと。
その感覚は痛くもどかしく、
顔は火照り胸も身体も、…その奥も、苦しく息が上手く出来ない。
そのせいか荒い呼吸に湿り、強く噛み過ぎた指は切れて溢れ伝う血と唾液に塗れる。
一方男はコウの様子など知らず、
ひたすらにその肌に噛み付き、
…そろそろかと、そのベルトを外しコウのズボンを脱がせる。
膝まで下ろさせて、膝を折らせて引き抜くように脱がし、床に落とす。
そして折ったままの脚を開かせようとその太腿に手を這わせると。
コウはビクッと震えると共に離れた指の間から、息を飲むように小さく甘い声を漏らした。
手が触れるその場所から血管を伝って、身体の奥の奥まで電流が走るような感覚。
シーツを握り締めていたもう片方の手からは力が抜けた。
いつも通りの横が紐上になっていて、それをリボンのように結んでいる黒い下着を濡らしているのは、汗だけではないことを悟る。
手を離さず男は、怪訝な顔でコウの顔を見る。
恍惚としていて、…本人に自覚は無いだろうが、目の端に溜まる涙のせいで、泣きそうな顔にも見える。
……男もまた、ぞくぞくと身体の何処からか、…何かが昂るのを感じた。
感じて、…思わず、
覆い被さるようにして、強引にコウの口から血と唾液塗れの手を離させ、顎を掴み開いたままの口に荒く唇を重ね、
舌を入れて犯すように掻き回す。
……口が離れ、無意識にコウはにやりと笑う。
………………その先は言うまでも無い。
つづく└('ω')┘