一章の六







朝。






目覚めが良いとは決して言えない、朝。


身体中が怠く、
そこら中に残された噛まれたような痕が痛い。


茫とした頭のままとりあえず起き直ってはみるものの、

…寝ている間に出て行ってしまったのか。
このようにした本人は既にいない。

この、深く残る噛み痕の痛みさえも心地良いと思えるようにした…
彼に文句も言えない。


微かに残る、タバコの匂いに咽せるだけ………。
















洗面器の前、トイレのドアに寄りかかって座り込む。

顔を洗っても頭は醒めず、
昨夜の記憶が蘇って、ふらついた。


淡い光に、煌めく色違いの目。

扇情的に身体を這う、手。

そして………。





今日はどうも、気分が悪い。




今日はどうも……





迷霧を彷徨う意識を、玄関のドアの開く音が醒ます。


「コウ兄ー!…あれ、起きてる?」

ベッドの隣だろう、りおの声が聞こえる。

されど返事する程の気力も無く、コウはそのまま、
自分を探しにこちらへ向かう足音を待つ。

「いた…コウ兄?どうした?」

まだ仕事服に着替える前の、ラフな格好のまま、いつもより少し低めの声で心配そうに話しかけてくる。

しかしコウは顔を上げず、…りおの方を見もせずに聞こえる程度に無表情のまま、呟く。

「……………今日は休む」

「……大丈夫?」


以後答えず、
コウはそのまま空虚を見つめて、自嘲的な笑みを浮かべた。





もはやそのまま何も言わぬコウを残し、
りおはバーの方へと戻る。

バーの中は各スタッフが、開店に向けて己の持ち場を掃除している。
りおも、掃除を中断してコウを起こしに行った次第だった。


壁に立てかけておいた箒を取る。
横から、いつも通りステージの横に立つだけで何もしない蛇が、話しかけてくる。

「………休み?」

言われずともわかる、勿論コウの事だと。
りおは何か言いかけたように口を開き、思い直したようにまた口を閉じて無言で頷く。























夕方も過ぎて、
夜になりかける頃。

空はまだ少し茜を残すが、殆どが紺色に染まり、月や小さな星達が見える。


しかしバーの中ではそんな空の様子を気にする暇もなく、開店して少ししか経っていないにも関わらず、ウェイターがフロアを忙しく回っている。

ステージやソファでは下着などの上にコートを纏った半裸に近い美女達が、接客に明け暮れている。
まだ、本業の、その時間ではない、と…。



その忙しなく歩き回るウェイターの中に、作り物のツインテールとスカートの裾に大量についたフリルを揺らすりおもいる。

(コウ兄、こっちにも来ない……)

時折コウの部屋へと続くステージの横の扉をチラチラと見ながら、接客をしている。


それを、
ステージの反対側の扉の横で、蛇が眺めていた。

変わらず和服姿のまま、壁にもたれかかり、りおだけでなくフロア全体を眺めている。

「…コウは仕事しないのかねー…」

それはほぼ独り言のようなものだったが、それに返事をするように、

「あなたに言える事じゃないと思いますけど。仕事してください」

扉を開けたその向こうからやってきた女性に叱られた。

「…………リサ」

その女性の名を、半ば怒ったように、また焦ったような低い声で呼び、
蛇は彼女を周りの視線から庇うようにしてドアの奥へと連れて行く。

「……………バーには出てくるなって言ったでしょ」

目を開いて言う蛇を、彼女は呆れたように見つめて返し、

「あなたが仕事しないからです」

嫌味のように言う彼女をその後ろの壁に押し付ける。

「………仕事はしてる」
「ウラで、でしょう。」

ウラの仕事。

コウの客を裏に寄せて、
コウにとっての危険因子を捌く。
方法は様々だが、己が蛇である利点を使う事も少なくはない。

そのついでに金が貰えれば、それをこのバーに入れる。

「私もコウも気付いています。表でして下さい。」

蛇はふと、眉を下げて哀しそうな顔をする。

「……あの子に全部押し付ける訳にはいかない」

しかし彼女は相変わらず、曇りの無い眼鏡のレンズの向こうの目を伏せ、呆れた顔のまま蛇を見上げて言う。

「……そうですけど。」

それを蛇はまた憤りを露わにして返す。

「…それは良いから、本当に、バーには出てこないでくれ。」

美女達の仲間ではない彼女を、
美女達の世界になど晒したくない。

蛇にとって彼女は、

「…わかりました。戻るから腕を退けてください」

腕を退けた蛇を通り過ぎるのを、抱き止めたその背中は、

溜息と共に機械のように呟く、リサは、
コウやりおと、いや、…二人よりも、

「本気で言ってるんだからね。」

貼り付けた笑みを簡単に乱す。

蛇やコウなどより幾許か小さな身体を覆う着物の裾を掴んで、
いとも静かに、
蛇の厭う言の葉を吐く。

「………わかってます、…離してください、にいさん」


開いた腕の中から、
サラサラと黒い髪を揺らして歩き去る彼女を、
蛇は、唯、見つめた。










開店したばかりにしては席は埋まっているが、
まだ、真夜中とは比べ物にならない。

客は美女達の接客に夢中になり、注文も殆ど無い。
手が暇になり、ただ飲みに来ただけの、バーの方に座る客と談笑するウェイターにりおは声をかける。

…やはり、コウの事が、気になるのだ。

”雅”と書かれたネームプレートにかかる黒く長い髪を掻き揚上げて、彼女はわかった、とだけ言ってニコリと笑う。
そしてまた背を向け、客との談笑に戻った。

それを見て、りおはさっと、裏口へ足を向ける。



…しかし。

裏口を出て、彼の部屋のドアを叩いても、返事は無く。
カギの開いた其処へ足を踏み入れても、その姿は無かった。

常にここにいる筈の、白い猫…ミケすらも、居ない。


「……コウ兄、どこ…」


仕事は休みだと、言っていた。

だとしたら、何処へ行ったのか。

りおの知る限りでは、コウは仕事以外では外出はしない。
然も、朝のあの様子は………。


なんだか嫌な感じがする、
と…りおは部屋を離れ、バーの敷地からも出て、裏道に入ってコウを探し始める。


りおは、
許可無しにバーの敷地から出る事を禁じられている。

(…後で怒られるかな)

其れすらも如何でも、良い程に…。




バーのある大通りから離れ、
段々に電灯も無くなり、ひび割れた建物に阻まれて暗い道を歩く。

ここよりも離れたとある場所に比べればまだ、マシだと言えるが、
ここもやはり…所々に見たくも無いモノが転がっている。

下さえ、見なければ。

時折彷徨いている浮浪者からも薬物中毒者からも身を守る術はある。
フリルが揺れる可愛らしい服装に合わせた靴が、汚れる事さえ気にしなければ。

下さえ、見なければ……………。




ふと、猫の鳴き声がした。

其方の方向を見れば、野良猫だろうか、…いや、捨て猫だろうか。
薄汚れた毛の長い猫が、こちらをじっと見つめている。

「あ……」

小さく声をもらして、蘇る記憶に浸る。


絶望に魅入られた身体を、爪の長い、優しい手が拾い上げた。
その顔は眩しくて…………


希望をくれた彼を、
余計に、探さなければなら無い、と、
その足を早めた。








そして。

更に奥へ、奥へと進み行き止まりとなった路地裏へ迷い込むまで、
その後ろ姿を追う影にりおは気付かなかった。

「っ……!」

脂臭い手に口元を塞がれ、驚きから洩れた声は声に成らずに掻き消される。

ハァ、ハァ、と耳元に吐かれる荒い吐息は、りおの身体を抱き込んだ男が、それまで…まるで何者からか逃げていたかのように思わせる。

「……ほーう、中々可愛い子じゃねえか」

りおの頬に手を這わし、大きく見開いた瞳を見つめて、男は息を整えて呟いた。

「撒けたみてぇだし、…」

と、りおの口は塞いだまま、動かない身体に空いた方の手を這わす。
それにはりおも、その手を退かそうと掴んだ…

瞬間。


…背後から、

発せられた、
一度だけ聞いた、低い、唸るような…

「…………おい」

その声に、男は驚いたように振り返る。
そして明らかに怯えたかのように、りおを盾にするように一度離したその身体を引き寄せ、また後ろから抱き締めた。

「……刺青、さんっ…?」

足音すらも立てずに来た男を見据え…
肺の辺りを締められ、りおは苦しげに声を洩らす。

「…刺青さんって何だよ」

しかしその男は、刺青の男は、
りおがいる事に全く驚かず、ただ疑問を口にしながら、かつそれすらも全くどうでも良さそうに、手の内にある黒く光る得物にもう片方の手をかける。

その瞬間に、りおは、刺青の男が決して助けに来た訳ではない事を、己を抱き締めるこの男が息を切らしていた理由を、悟る。

「…え、あ……コウ兄が、刺青くん、って、呼んでた…から…」

声が、震える。

カチリと音がして、刺青の男はゆっくりと得物にかけた方の手を離した。

「…おいおい、知り合いかよ!?」

りおを抱き締める男は、恐怖を紛らわせるように明るい声で問う。

「まあいい、お前、んなでけえ銃じゃこいつに当たるぜ!?」

そして、りおの身体を抱く腕に更に力を入れた。
更にぐっと締められ、耳元に当たる荒い吐息も相まって吐き気がする…。

その様子にすら興味も無さげに、刺青の男はいつの間にか点けたタバコを吸い、

「…どうだろうな」

ふっと呟いて、ニヤリと笑う。


今までに見た事も無いような恐ろしいその笑みに硬直する二人を、男の足元を撃ち抜く。

その銃弾は男の足を掠っただけにも関わらず、大きく傷をつけて割れた石畳に埋まった。
返り血に、りおの足が濡れる。

決して下は見ぬように…白いタイツに浸透して行く液体を無視して、ただ痛みに踠いて離された己の身体を抱きながら、
無表情に戻った刺青の男を震える目で見つめる。

一方刺青の男は何事も無かったかのように銃を仕舞い、またタバコを吸いながら、手で、こちらに来い、とりおに合図する。

それに応え、駆け寄り後ろに回るりおを尻目に、
横の薄汚れた壁に立てかけて置いたチェーンソーを、手に取る。

そして情けない声を上げて後退る男の目を見つめ、呟きながら、近づいて行く。

「…依頼人からは微塵切りに、って頼まれてるんでな……」

コードを引っ張り、電気を通す。
エンジンが唸るのを確認して、長いコートのチャックを上まで上げ、フードを被り…

「…見ねえ方が良いと思うぞ」

背後にいるりおに、一言告げる。

震える身体を抱いたまま固まったりおは、男に刃先を近付けるのを見て弾かれた様に路地を飛び出した。
そして、壁に寄りかかり、不安に口元を覆い…

男の悲鳴と、何の立てる音かも知りたくないソレを、
唯、聞く事しか出来なかった。







…音が止む。

結局震える脚を動かす事が出来ず、最後まで、聞いてしまった。

下を見ないだけでは済みそうにないそれを、嫌でも想像してしまう。

あの男は、…どうなったのだろうか…。

知りたくはない。
不意に溜まる涙を拭う事も出来ず、吐き気が収まるまで立っている事しか、出来そうにない…。


そんなりおの元に、
ふわりと、音も立てず、
何処からか今度は見慣れた顔が降り立った。

「……りお、なんでお前、こんな所に」

コウ兄、と手の間から小さく呟く。

「夜に彼処から出るなって言って……」

りおの顔と血に濡れた足を見て、コウは言葉に詰まる。

先程、聞こえた…アレは。

この一帯を埋める強い血の匂いの元であろう方を向く。

そこへ、
靴底から顔まで血に塗れた刺青の男が、
出て来る。

出て来るなり、コウを、睨んだ。

その姿を見て息を呑んだりおの身体を抱き締め、
噎せそうになりながら。

「…凄え匂いすると思ったら、お前かよ…」

予想はしていたから、驚きはしない。
しかしその様には流石に、ここの裏路地を揺蕩うコウですら、吐き気を催すものであった。




「…刺青くん、は無えだろ」

一仕事終えた後の一本をと、タバコに火をつけながら呟く。

コウは変わらずりおを守る様に抱き締め、血塗れのままタバコを吸う男から目を反らせずにいた。
その言葉に疑問符を浮かべるコウに、りおは小さな声で説明する。

「………名前知らねえもん」

りおや蛇しか知らないであろうその呼び名に対する文句を言われた理由を知り、拗ねた様に答える。

「…つーか、お前も俺の名前」

知らねえだろ、と続く所を遮られ。

「コウ」

刺青の男に、初めて、その名を呼ばれる。

心臓がドキリと跳ね、
ドクドクと全身の血が巡るのを感じる。
りおを抱き締める手に不意に力が入り…。

吐き気に掻き消されていたあの昂りを、今までよりもずっと強く感じた。

「…そこのゴスロリとあの蛇が呼んでたから知ってる」

それを見ていないのか、全く気にしない様子で述べる刺青の男に、

「…フルじゃねえけどな…」

と変に上擦る声で告げる。


そんなコウの腕の中のりおは、
熱くなる顔に手を当てて口を噤む兄の様な存在を見上げ、 
意味のわからない空気に、この状況で、と、言うなれば、若干引いていた。



「………お前は」

顔から手を離し、
目線も合わない刺青の男に問うが。

「教えねえ」

即答され、
何か言おうと開きかけた口を、閉じた。

その目線が、コウから、りおに移り、またコウに戻る。そして、完全に逸らされた。

余計な事を、余計な人物に知られたくない、とでも言うのだろう。

男の職業からして、納得は行く。

教えてくれそうにないのらば、と、
コウは腕を解いて、りおの肩に手を置く。

「………とりあえず、連れて帰る」



また何処かで会えるならば。



視線に込めて、
吸い殻を潰す男に背を向けた。















続く└('ω')┘