※表紙絵は後日
暫く歩いた頃か。
変わらず続く草原の間の砂利道の先、遠くの方に家がぽつぽつと見える。あれが、先程言っていた町だろうか。
頭上に広がる空は、秋晴れらしく澄み渡り、風は冷たいが暖かな陽光に照らされ気にする程でもなかった。
ソワネは先程、魔力も疲労も歩ける程度には回復し、レノに抱えられていたのを降ろしてもらった。
そのまま、2人は無言でただ歩き続けていた。
町が見え始め、初めてレノはソワネの方に視線を移し、少ししてその肩に手を置き足を止める。
「…ソワネ。」
なんだ、とソワネも足を止め、レノを見上げるが、レノは何か言いたげに口を開いたまま、何も言わずまた前を向きフードを被る。
お前も、と小さい声で呟き、ソワネのケープのフードを引っ張り上げた。
ソワネは立ち上がったままの大きな耳を手で後ろへと押さえ、促されるままフードを深く被った。
しかしそれでも何かを考えているかのようにあらぬ方向を見つめ、動かぬレノに、困惑した目線を向ける。
「…レノ。どうしたのだ」
そしてやっと、ソワネと見つめ合う。
「……ソワネ、…他の人間が居る所では、お前の名は呼べない。ソワネと言う名前は、少なくともこの辺りでは、お前しか、いない。」
ソワネという名を呼べば、フィネクス王国の前国王の息子、ソワネ・ルクシオウラ・フィネクスだと、直ぐにバレてしまう。
確かにそうだ。それでは、こうして服を変えた意味や、恐らくフードを被った意味も無い。
「だから、何か名前を、考えなくてはならない。…何が良い?」
しかし何故それを、伝える事を戸惑ったのかは、わからない。
名前、と言われてもやはり、何も浮かばない。
レノの名を付けた時は、ただ瞳を見つめてしっくり来るものが浮かんだだけで、己の事となると…。
王族に関係するような名前などしか浮かばない。
「……それこそ、お前が付けてくれ。」
責任をレノに委ねる気はなかったが。
その名前を呼ぶのは彼なのだから、彼にとって1番、良い物を選んで欲しかった。
何となく、…ただ彼に名付けて欲しかった。
「…私がお前を名付けたのだから、お返しだ」
しかしそれを言うのも何だか恥ずかしく、適当に誤魔化す。
しかしそれも見抜かれているかのように、見上げる顔は悪戯な笑みを浮かべている。
そして何か考えるように、ソワネの瞳を見つめたまま、黙ってしまう。
目を逸らしても見つめてくるのを感じ、顔ごと逸らしても、変わらず動かない。
そして、ソワネのフードの下の薄紫の髪を梳くように撫で、やっと口を開く。
「…イスザ」
思わずその顔をまた見上げる。
まさか花の名を付けられるとは。
「それ、は、」
幾ら何でも、と思ったが、毎夜夜空に浮かぶ星の名を付けた仕返しなのかもしれない。
と、思ったが。
「…嫌か?」
その顔は、昨晩名を付けた時と同じように、微笑んでいる。
からかっている訳では無い、らしい。
髪を撫でる手がいやに優しく感じる。
…頭を、ただ撫でられるのも、父以外では、この男が始めてだ。
ソワネの意とは無関係に揺れる尾を、慌てて抑える。…スカートでも何でも良いから、何か隠す物が欲しい。
レノは髪から手を離し、口元を押さえて小さく笑う。
ソワネはやはり睨むが、それを止める事なく長い前髪に隠すように顔を伏せ、今度は上着の中をごそごそと探り始めた。
「…それと。」
その中から、深く黒い液体の入った、小さな瓶を取り出す。
レノが、目元と唇の化粧に使っているものだ。
それをソワネに渡し、今度はケースの中から、いつの間に入れたのか、水の入った瓶を取り出した。
「何を…」
周りを見渡し、誰も居ないことを再確認して、ソワネの後ろに回る。
そして、その腰から生える小さな翼に触れた。
灰や埃、土などで汚れてはいたが、それでも元の純白の羽が太陽の光に輝いている。
翼をわざと触れられる事に慣れていないソワネは、思わず身を震わせる。
王城では、小さな頃から、同じ王族でさえ、軽々しく他人の羽に触れるものではないと教えられてきた。子供だからと言って、ソワネの羽にも、触れる者は父以外ではいなかった。
「…悪い。触るのは御法度だったな」
そう言いながらも、触れるのをやめず、むしろ更に根元の方へと指を滑らせる。
「いや、いい………何を、するの、」
ゾワゾワとした感覚に声が震え、ふわふわとした羽毛をすり抜ける手を己の、杖を腕に挟み空いた手を重ねて止める。
レノはソワネの身体に腕を回し、瓶を握る手に己の手を添えた。
「…お前の羽を、汚す。ここまで穢れの無い白い羽は、目立つ。」
確かに、そうなのかもしれない。
フィネクス王族のような白い羽は、王国の中でも見かけた事は無く、旅人や商人の類でも、見た事はなかった。
しかし、それでも、抵抗はある。
仕方のない事だと思っても、不安を映す目をレノに向けるのを止められなかった。
レノは、何も言わず押さえた手を振り払う。
水の入った瓶の蓋を開け、少し後ろに下がった。
「後ろに、広げてくれ。お前の脚まで汚したくない。」
言われた通りに、翼を広げる。
飛ぶ時や、たまの羽繕い以外では、ここまで広げる事はない。それもかなり久しぶりで、まるでずっと曲げていた脚を伸ばすような感覚。
だが、それはすぐに、自分以外の人間に羽を意図的に触れられ濡らされるゾワゾワとした感覚に変わる。
その手は、翼の先から、腰から生えるその根元にまで触れ、背筋が何かが走り抜けたように震える。
「…大丈夫か」
逃れるように翼が閉じようとするのを、抑える。
「気持ち悪い…」
手で押さえた口から絞り出すように出したその声は、酷く上擦っていた。
しかし、レノは手を止める事は無く、翼の全体を濡らすと、今度は化粧の瓶を開け、中の黒い、ドロドロとした液体を己の手と、ソワネの羽に垂らす。
レノの目や髪と同じ位黒いそれは、見る見るうちにソワネの純白の羽を黒く染めていく。
羽につけた水で、それを、全体に広げていく。
片手では時間がかかると思ったのか、化粧の瓶をソワネの震える手に渡し、両手で羽を梳くように染み込ませていった。
ソワネは、変わらず手で押さえる口元から、小さく声を漏らして耐える。
「…終わった。」
荒れた羽並みを直し、小さく震え少し息の荒いソワネに声をかけた。
その言葉に、翼を前に寄せて確かめる。
未だ日の光を受けて光るが、ソワネの純白だった羽は、今や黒ずみ汚れている。
「乾くまでは、まだ広げておいた方が良い」
そう言われ、ソワネはまた翼を広げた。
レノは、黒く染まった両手を、水で洗い流す。
そして、水の入った瓶をケースにしまい直し、それを持ち立ち上がる。
「…ソワネ。」
涙目で己を見上げるその顔を見つめ、少し眉を寄せた。
「今からは、本当に2人きりの時以外は、お前をイスザと呼ぶ。」
何故、そんな顔をするのだろう。
頬を撫でられ、ソワネは困惑した表情でその目を見つめる。
しかし今度は、レノの方から目線を逸らした。
「…お前の名を、見捨てた訳じゃない。」
息を吐くように呟く。
それ以上は何も言わず、町の方を向き、また、歩き始めた。
…この男は、元から名前が無いのではなく、本当の名を、捨てられた…のかも、知れない。
何となく、そう思った。
それがどういう意味を持つのかは、ソワネには想像することは出来なかったが。
つづく。