辿り着いたのは、王国から少し離れた、
鬱蒼とした森の中にある、小さな小屋だった。
男は周りを見渡し、小屋の扉の前にソワネを下ろす。ケースもその場に下ろし、腰に巻いたタッセルの付いた厚手の黒い布の下に、隠れるように巻かれた幾つかのベルトから、鍵束を外す。
20は超える本数の鍵が付いていたが、特に迷う事も無く正しい物を選び取って小屋の鍵を開けた。
鍵束を仕舞い、ケースを持ち上げて扉を開ける。
小屋そのものと同じ木製だが、城下町の家々の物と比べて幾らか重たいのか、動作はゆっくりとしたものだった。…もしくは、ソワネの身体を長らく抱えていた事で、息こそは未だ乱れていないが、この男も流石に疲れているのかもしれない。
暫く使われていないのか、蝶番の軋むような音が響くが、それは幾層にも並ぶ森の木々に吸われて消える。
静寂。
「…ソワネ」
ぼんやりと突っ立ったままのソワネの名を呼び、男は小屋の中へと招く。
今更ながらも、少し警戒するように身体を強張らせたまま、ソワネは男の後に続いて小屋へと入った。
扉の内側の壁、ちょうど男の頭位の位置につけられたランタンの中の蝋燭に、男は指を鳴らして火を付けた。
この男も、どうやら魔法が使えるようだ。
「……安心しろ、俺は魔法は得意じゃない。…これくらいしか出来ない」
その仕草を見つめるソワネに、振り返り淡々と述べる。
ソワネの背後の扉を閉め、そのまま部屋を囲む壁についた数個のランタン、真ん中のテーブルの上のランタンも、全てに火を付けていった。
ケースは、ソワネの向かいの壁に立てかけるようにして置いた。
やはり暫く使われていないようで、小屋の中は埃が舞い、男が窓を開ける際も軋む音が響いた。
「…その辺に座ってろ」
促されるままに向かった、テーブルの横の椅子も、やはり埃を被っていて、綺麗に掃除された王城内に慣れていたソワネには、決して座りたいと思えるものではなかった。
しかしこのまま立っているのもどうかと、意を決して埃を払う。
案の定慣れない事に、吸い込んだ埃に咳き込んだ。
「……悪いな、先に掃除が出来れば良かったが、…生憎そんな時間は無くてな」
声の調子も表情も変わらず、皮肉なのかもわからない。
「…へ、いきだ」
やっと絞り出した声は、かなり荒んで酷いものだった。
咳払いをするソワネの方の空気を仰ぎながら、男が一瞬、笑ったような気がした。
無表情に戻った男は、ソワネの代わりに椅子の埃を払い、また別の窓を開けに行く。
ソワネは杖をテーブルに立てかけ、軋む椅子に座った。
…やはり、少し、寒い。ケープを巻き込んで腕を組むように己の身体を抱き締める。
男は、扉の向かいの壁の棚から、大きめの空の瓶を取り出した。埃を払い、汚れを見ているのか、中をランタンの光に当てて見る。
「…水を汲んでくる。」
そう言って、男は瓶を持って扉から出て行った。
井戸があるのだろうか。窓の外を眺める限り、そのまま小屋の裏手に回ったようだ。
する事も無く、ソワネは小屋の中を見渡す。
扉の向かいに食器や色々な物が入った、古い棚。
扉から左には、キッチンのような場所がある。右には、暖炉と、本棚、何処かへ続く扉がある。
ランタン以外に壁にかかっている物やテーブルに乗っているものなどは無く、また、テーブルクロスやカーペットの類もない。家具や食器はあっても、生活感は無く、王城の中を見慣れているソワネには殺風景な小屋だった。
いつもならスカートや、マントに隠れている長い狐のような尾が、いまや剥き出しで不安に揺れている。
窓から流れ込む冷気に、ソワネは身体を縮こませ、露出した肌に尾を絡ませた。ふわりとした毛は、少しばかり冷たさを凌ぐにはちょうど良かった。
しかし、それでもどんどんと身体が冷えて行くのは止められなかった。
王国が襲われたのはちょうど、ソワネが書斎での仕事をあと少しで終わらせ、寝ようとしていた時間帯。夜食を済ませた後とはいえ、逃げ回った事で消えていた眠気も、疲労も、それから来る食欲が今この身を苦しませ始めている。
こんな所に食料があるとは思えないが…どうするつもりなのだろうか。
そう考えているうちに、男が水で満たされた瓶を持って戻って来た。
「…こっちでも、水が出るようにした」
そう言って、瓶をテーブルに置き、男はキッチンのシンクへ近付き、固くなった蛇口を無理矢理捻る。
暫くの無音の後、表現しがたい音を上げて、蛇口から濁った水が溢れ出した。
それをそのままにして、男は食器棚からコップを取り出し、何処から持ってきたのか、濡れたタオルでそれを拭いてテーブルに置いた。そして瓶から水を注ぎ、ソワネに差し出す。
清潔さに関しては如何様とも言い難いが、今はこれしか、無い。それよりも水の流れる音にやっと自覚した喉の渇きをどうにかしたかった。
そのコップを両手で掴み、ついと口に運ぶ。
それをギリギリのところで男が手で制した。
「……焦るな。また咳き込むぞ」
男はニヤリと笑う。闇の中に光る白い歯は、今度は気のせいではなかった。
そのまま男はソワネの持つコップから手を離し、背後にある流れたままの水を止めに行く。
濁りきっていた水は今や、蝋燭の灯りで見る限りは、綺麗に透き通っていた。
男はまたソワネの方に振り返り、水を飲むソワネの姿を少し見つめた後、奥にある扉から続く部屋へと消えた。
そしてソワネがコップの中身を飲み干す頃に、大きなウール地の長方形の布を持って来た。
震えていることに、いつ気付いたのか、何も言わずそれをソワネの肩にかける。どうやらブランケットのようだ。埃は払ったようだが、匂いが残っている。仕方ないが。
戸惑い男を見上げるソワネに事も無げに呟いた。
「…寒いんだろ」
そのまま何も言わず男は、食器棚や、キッチンの棚をがちゃがちゃと音を立てながら雑に探り始める。
ソワネはその姿を、ブランケットに包まりながら見つめていた。
つづく