「……なあ」
暫く探した後、出てきた何かの袋をカウンターに置き、男は鍋を洗って水を入れ、それをまた指を鳴らして点けた火で温め始める。
その背中を見つめるソワネは、そろそろ話しても良いのではないだろうかと、声をかけた。
しかし、男の名前をソワネは知らない。
どう声をかければ良いのかと、悩みに悩んだ末に絞り出したのがこの言葉だった。
頭だけ半ば振り向いた男は、聞こえやすくする為か、やっと、フードを外した。
目を隠す程に伸びた前髪と違い、後ろ髪は頭皮近くまで短く刈り上げられていたが、自分で切ったのか、均一でなく所々跳ねている。
耳にはピアスをつけており、細い糸の先についた小さな丸い飾りが、蝋燭の灯りに煌めいた。
「……お前は、名前は、何だ。解放した時にも聞いていなかったが…」
いやに声が震える。
この男は、今までに出会った、王城の者達、父や、代わりの王、他国の者達、更に言えば、ソワネを追いかけたあのフードの男達。その誰よりも、
…いや、どの者とも違う。
王としても、…子供心にも、ソワネに言い得ない気迫を感じさせた。
目を合わせては、息がつまりまともに話す事が出来ない。思わず目を逸らしてしまった。
男は短く溜息を吐くように息を吐き、一度ソワネから目を逸らしまた視線を戻す。
「俺に名前は無い。…お前の好きなように呼んでくれ」
戸惑うソワネの方に、小さく「いや、違うな」などと呟きながら、今度は身体ごと向ける。
「…ソワネ、お前に名前を付けて欲しい」
男は至って真剣な眼差しで、冗談を言っているような様子もない。
名前が無い、とは、どう言う事なのか。
例えソワネと出会うまで、ずっと奴隷の身であったとしても。
そして、何故、ソワネなのか。
ソワネは男の事を全く知らないのに、この男はソワネの事をよく知っているような、そんな様子を、度々感じる。
「何故……」
数々の疑問は、言葉にする事も出来ず短い問いとなり小さく震えた声で紡がれる。
こんな瞳をした男に、過去の事を今、問いただしたくは無い。
男はそのまま、ソワネと目を合わせ見つめたまま、そっと近付きその小さな顎を指で持ち上げる。
「…ソワネが良い。それだけだ。」
何故、この男が自分に拘るのかはわからない。
名前など、付けた事も無ければどんな名前が良いのかもわからない。
だが、その目に映る蝋燭の灯りと煌めきに、その迷いは一瞬にして消え去る。
深い闇の中に浮かぶ光。
「レノ」
思わず口をついて出た、その瞬間、男はふわりと微笑んだ。
先程の悪戯っぽい笑みでもなく、嗤っているような笑みでもない。
唯純粋な、幸福の笑みだった。
男はそのまま少し屈み、顎から手を離し、その手でソワネの左手を掴んだ。そして、その小さな薬指の、かつて常に嵌めていた王族の、フィネクス王国王の指輪のあった場所に口付けをした。
今までその様な事を、された事はなかった。
たったの今、やっと、王だと認められた気がした。
…もう、王国は無いというのに。
不意に涙が出そうになり気付かれぬよう顔を伏せる。
男は何も言わずその手を離し、鍋の様子を見にキッチンの方へ戻って行った。
ソワネは思わず、先程を付けた名前を呼ぶ。
「…レノ」
声が引き攣り喉が枯れる。
男は振り向き、招くように両手を広げた。
何も言わず、揺れるソワネの瞳を見つめた。
立ち上がり、覚束ない足つきで男に近付き、恐る恐るその身体に抱き着いた。
黒の男、レノは、震えるソワネの小さな身体を抱き締めた。
声にならない傷みは、静かな嗚咽となって闇に消えた。
(こんなに小さな身体で、声を上げて泣く事も出来ないのか。)
つづく