一章の二





猫を追った男は、服に隠れて見えぬ身体、おそらくは背中から、這うように、顔を横切るように、刺青をいれていた。

暗闇の中で猫が認識した色は、銀。

男は、銀の髪の狼だった。











昨夜の言葉が忘れられず、フードの男は、また彼を探した。

しかし今度は殺すつもりはない。
気取られぬよう、足跡を消して、見つからぬよう、闇に隠れた。

古くなった建物の間の、汚く汚れた壁に挟まれた石畳の裏路地に、彼は居た。

おそらく客であろう、男を連れて。


壁に手をつき、後ろにいる男に耐える。
甲高い喘ぐような声が響くが、

…猫は、相当な役者らしい。

快感を訴えるようにはきこえるが、どうも…………
客はそれで満足しているらしいが、
腑に落ちない、ような気がした。


しかし、眺めるのも瞬、

これ以上この茶番に付き合ってられるかとばかりに、フードの男は、舌打ちをしてその場から姿を消す。


猫は、無表情の顔を、口元を歪めせせら笑う。















「見てたでしょ。」

また別の古ぼけた建物の屋上に座って、
煙草を吸っているところに猫はやってきた。

あの暗い、赤の、おそらく女物のハイヒールで、どうやって足音を消してここまで来たのか問うてみたいものだ。

猫は、相変わらずニタニタと笑っている。

「…ねえ、しよーよ」

甘えたような声で言う。

「さっきのじゃあさ…ねえ、あんたも少しは、」

とまで言いかけた所で、

屋上に出る扉の上の非常灯に照らされた、
鈍く光る…銃口を、向けられた。

しかし猫はやはり、全く動じない。

依然口角を釣り上げたまま、座ったままの相手に歩み寄り、もはやただ脅す為だけで撃つ気は無いと判断したその銃に手を伸ばし、指先で退かす。

相手が気付き何も言わぬうちに、いや、言う前に、素早くその脚に跨り、押し倒す。

その際に男のフードが外れ、
月明かりと非常灯に照らされ短い、銀色の髪が光る。


「…降りろ」

恐らく怒っているだろう、低い声も無視しているのか。
猫は男の顔を横切る刺青を、指先でなぞっている。

その指が下へ…男の唇に触れた辺りで、また甘えたような声で呟いた。

「ねえ…」

目を細め、いかにも…………といった表情。

しかし男は降りる気のない猫の態度に更にイラついたようだ。

肋骨の辺りを掴んで引き寄せ、
固まった猫の身体ごとぐるりと身を返す。
そしてそのままフィルター部分まで燃えたタバコを、露出した猫の鎖骨の上の辺りに押し付ける。

驚きに丸くしていた目を細め、痛みにか、小さい声をもらし、少し顔をあげた。

その際にパーカーのフードが外れ、
初めて…今まで前髪しか見えていなかった目と同じように紅い髪と、耳…だろうか。所謂猫耳のような、毛の塊が髪の間から、人間の耳があるであろう位置の少し上にあるのが見えた。

男が押し付けていた手を上げたまま、止まった、ことを見逃さないというように、
猫は両手で男の胸元を服を掴み引き寄せ、キスをした。

意外にも相手は抵抗もせず、されるがままであった。


口を離し、無言のままこちらを見つめる相手をまた、誘う。
やはり何も言わずに、こちらを睨むだけだったが。


いつもの客のような奴なら、ここまでせずとも、もうかかっているというのに。
勿論いつもの、客のような奴ではないことは最初からなんとなくわかっていたし、そもそも客として接する気は無かった。金を取る気もない。

何故だろうか……今まで殺されかけた事は何度かあった。
しかしこいつになら殺されてもいい、と思えるような奴はいなかった。
そもそも何故この…狼のような匂いのする男に殺されてもいいなどと思ったのか、わからない。

互いの事は何一つわからない。
どんな人間なのかもわからない。
もしかしたらこれが仮の姿かもしれない。

…自分はただ、男の、両の色の違う目に、惹かれたのかもしれない。

青みがかった灰色と、光の角度だろうか?赤の混じる黄色…銀と金のような、その目に睨まれると、何か…何かが、昂ぶる気がした。


そんなことを考えながらその目を見つめる猫の、…耳を、男が掴み、引っ張った。

「痛ぇ!!!」

不意をつかれたか、先程の甘い声ではなく、地声か。低い声をあげた。

「……本物か」

「本物に決まってんだろ…」

男の問いに唸るように答える。

成る程、これが素か。
猫のイラついた様な顔を見て思うが、それもみるみる内にまたあのにやけたような顔に戻る。

そしてまた、甘えた声で誘われる。

「ふざけるな」

それだけ言って、尚も服を掴んだままの猫の手を払って立ち上がり、
男は、闇に消えた。


猫はその様を見つめ、まだかからぬか、と舌を打ち、
男が消えた方向を見つめながらまた、ニヤリと嗤う。


















廃屋。
(古い建物が並ぶこの辺りでは、特に珍しくもない。街の外れ、スラムのようなこの辺りでは。)

刺青の男は、また、猫の接客、偽物の声をあげる様を見つめていた。

何もその様子が見たかった訳ではない。

死にたそうで、殺させてくれないその理由が気になっていただけだった。

しかし夜はずっと客引きをしているようで、家などに帰る様子も無い。
親しいであろう者と喋る姿はたまに見るが、それもお仲間の女性たちだけ。

まだ死ねない理由……あるはずだ。
あの時の言葉は、ただの命乞いには聞こえなかった。

人か、物かは、わからないが、恐らく……。



そうこう考えているうちに、”接客”を終えた猫が、服を整え、客から貰った金を仕舞い…

こちらを見た。

この距離で気付くことはない筈だが、
どう見てもこちらを見て、ニヤニヤと笑っている。

猫、か。

目を離そうとした瞬間に、こちらに、控えめにあげた手を振った。
そして、その手を下ろし、何事もなかったかのように、裏路地から、お仲間のいる大通りへ歩いて行く。




場所を、移動するか。
それとも、次の仕事へ行くか……
男が考えていると、後ろから物音。

部屋のドアが開く音がして、銃を構えて振り向く。

そこには、猫がいた。
暗闇に光る目が、こちらを見ている。

「…また、見てたでしょ。」

相も変わらず、誘うような甘い声。

「したいならしたいっていいなよ」

ゆっくりと、近づいてくる。
やはりハイヒールを履いている筈なのに、足音は微かに、床の軋む音に消えている。

外から電灯の光が差し込む辺りまで来て、表情は見えた。
予想に反して…先程とは違い、至って真顔である。いつも通りなのは、声だけだった。

やはり、役者か。

「失せろ」

男は銃を下ろし、顔を逸らした。

悲しそうに眉を下げて、また一歩、音を立てずに近づく。

「酷いなぁ…というか、今回は単に俺がしたいだけなんだけど。あんなんじゃあ、ねえ?」

と、触れられるまで近づいて、また上目遣いで、…真顔を崩して誘うように言う。

無論男は断るが、それでも猫は誘う。


…苛立ちも限界か。
猫のしつこい誘惑に、男は応えた。


「そんなに欲しいならくれてやるよ」

唸るように呟いて、
古く腐った机に力任せに猫の身体を押し付けた。

「…ただしあの似非た喘ぎは無しだ」





…愛撫などは一切無く、痛みに耐えるだけかと思っていたが。
しかし押しに押してかかった相手に、
…感じた事の無い何かに、
猫はひそりと笑う。

それが何かわかったのは、終わった後、中途途切れた意識と、自らを濡らした物の存在に気付いた時だった。









つづく└('ω')┘